【体験レポート】はじめての人形供養


おはよう、皆の衆。定次さんです。
心の拠り所として人形を身の回りに置いておく人は多いでしょう。
それは今の時代も昔の時代も変わらず……アニメフィギュアやぬいぐるみなどと、形は変われど人の心は変わらないものです。
皆さんにもきっとそんな人形たちを愛する頃があったでしょう。
もしかしたら今も尚、何かしらの人形とともに過ごしている――なんて方も多いかもしれません。
ただ、その気持ちは決して恥ずかしい気持ちではなく、人として、情を持つ生き物として当然のこと。
周囲の人と見比べてもそんな自分を子どもっぽいと恥ずかしがることはせず、今日も明日も変わらず自分の相棒を愛でるべきだと私は思います。
――それでもやはりいつかは迎えてしまう別れの時。
いつまでも大事にしておきたい人形ですが、大人になって精神が成長していくといつかは手放す時がきてしまうかもしれません。
そのタイミングは新たな環境への移り変わりか、出会いか、結婚か、はたまた子どもが生まれた瞬間か……その節目は色々あるでしょう。
もちろんそんな運命と共に一生涯大事にする――なんて話もよくあるものですが、やはり人として生きていく上で、決別を経て気持ちが成長するなんて考えもきっとあると思います。
情が移れば移るほど、手放しにくくなってしまう人形たち。
情が移るからこそ、手放す時に成長のきっかけを与えてくれる――。
そんなお世話になった人形たちを供養する方法と、私自身初めて行った人形供養の体験レポートを書き綴っていきたいと思います、今回の記事でございます。
3月8日は何の日?
現在月日は3月9日。高校生たちがこぞってレミオロメンを歌い出す日です。
今回の記事の投稿日は3月8日ですが――、実は翌日の9日に3月8日の記事を書いているのには一つ理由がありまして……。
3月8日は『サバの日』。3と8の語呂合わせで『サバ』と読む、何とも安直でわかりやすい記念日です。
安直故に、サバを食べたいという意欲も簡単に湧いてくるこの『サバの日』。
私も先日、スーパーでたまたま安売りしていたサバの切り身を見つけて購入していたものですから、ちょうど良いということで昨日はサバの半身を焼いてご飯のお供にしていました。

サバを焼いて食べたから何だって話ではあるのですが――、実際問題、サバをはじめとした青魚の焼き魚料理というのはなかなかどうして美味しいもので、それもただ美味しいだけでなく、クッキングペーパーを敷いたフライパンで焼けば簡単に料理ができて、尚且つ洗い物の手間も減るわけですから、非常にオススメしたいと思って今回お話させていただいている次第でございます。
最近ではどうも魚自体の値段も高騰し、それでいて冷蔵庫に入れたところで痛みやすい食材なわけですから、あまり手を出しにくい――というのが世間一般の声だとは思いますが、実際には上手に扱えば新鮮な状態のまま、美味しく長持ちさせることもできるので、その方法を知らない大半の人は人生を損しているのではないかと考えます。
無論、私もそんな方法を存じ上げない上でこの話を進めているので、私自身もそんな大半の人に含まれているわけなのですが、正直なところ長持ちさせることができないのであれば、新鮮な魚を安く手に入れる方法を模索した方が良いのではないかと考えます。
一応、今のところ簡単に思いつく方法として、『比較的値段の安いスーパーで購入を試みる』だとか、『値引きされるタイミングを見計らって買い物に行く』だとか、『漁師の人に取り入ることで露骨に"棚ぼた"を狙う』というのが良い線をいっているのではないかなと考えるのですが――実際問題、そんな方法なんて誰だって考え得ることだと私は思います。
どうせなら誰しもが考えつかなかった画期的な方法で安く魚を仕入れたい――。
人間とは考える葦である――フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルの言葉です。今調べました。
人間とは考える知能があり、幸い私自身も一般人に毛が生えたくらいには賢い知恵を持っております。
故に、今回私は安く魚を仕入れる画期的な方法として少しばかり頭を捻ってみました。
――しかしながら、よくよく考えてみればそこまで毎日魚を食べたいわけでもないですし、なんなら普段からそこまで魚を食べているわけでもありません。
今回はたまたまサバをサバの日に食べたからということで適当にそんなことを思っただけであって、恐らくサバを購入した時もスーパーがサバの日に合わせてサバの価格を安くしていただけだったということが根底にあるでしょう。
だからこそ特別に頭を使ってまで、お財布事情に歩み寄ってまで魚を食べる必要性はないですし、時に気まぐれに魚を購入したところで大きな損失を被ることもありません。
魚自体は好きですが、好きなタイミングで好きに魚を食わせてほしい――。
そんなことを考えながら、今日も私はサバをフライパンで焼いてご飯のお供にする予定です。

人形供養とは?
誰もが一度は耳にしたことがあるであろう『人形供養』。
冒頭でもお話ししたように、これまでお世話になった大事な人形を供養するために行う大事な儀式です。
古くから物には魂が宿る――とはよく言ったものですが、実際問題、それが本当であるかどうかは別として、人や生き物をかたどったものに思いが込められるのはごく自然なことだと考えられます。
思いが込められるからこそ存在意義が出てきますし、そこにオカルト的な考えも湧いてくることもあるでしょう。
――何にせよ、人形供養とはそんな気持ちを治める儀礼的なもの。
まずは人形供養とはどういったものか、解説を交えて紹介していきたいと思います。

まずは人形供養とは何たるか。
それは文字通り人形を供養して破棄する行事です。
『破棄』という言葉を使うと何とも事務的に見えてしまいますが、思いが込められた人形だからこそまずは供養。そしてその器を破棄する――といった認識が正しいのではないかと考えられます。
ただ、この供養という方法は元来昔ながらの伝統から行われるもので、物が多く溢れている昨今ではリサイクルショップに売りに出すなどといった方法で手放すといった考えもあったりします。
物に宿る魂というのはあくまで概念的なもの。端的に言えば"オカルト"です。
ただ、そんな形で済ませたくないという想いがあるからこそ存在するのが供養であって、人は気持ちの落とし所を見つけるために人形供養を行うのです。


嘗ては私もとある別の世界線で過ごしていた頃、人々の精神的支柱に――ということから、偶像崇拝の対象として都市部の中心に立派な銅像を建ててもらったことがありました。
ただ、長い年月を経ていく上でそんな私の存在も次第に薄れていき、最終的には日照権を訴えてきた自治体のおばさん達の集めた署名により撤去されることとなりました。
確かに住宅街の真ん中に遮るように突っ立っていたものでしたから、邪魔だという理由から撤去されるのもわかります。
実際問題、家の真横に高さ30m以上、幅が16mもの銅像が立っていたら圧も凄いでしょうし、場所によっては日当たりも悪いでしょう。
ただ、紀元前に遠いご先祖様が建てたもので、住宅街自体も後からそこにできたわけですから、地域住民からの訴えの声が上がった時にはその不条理さに憤りを覚えざるを得ませんでした。
しかしながら、移り行く時代の中でいつまでも過去の栄光に囚われながら腰を据え続けるのもよろしくありません。
銅像が崩される際、一部の住民は最後まで抵抗して涙を流していましたが、その傍らで日照権を訴える横断幕をベランダにかけながら狂喜乱舞するおばさん達を眺め、私は自身の像の最期を見届けたのでした。
――器が壊れ、魂が昇華し、現世界線へと移り変わってから長い年月が経ちました。
最近の私はそんな自らの銅像が撤去される際に行われた供養祭の経験から、一つのぬいぐるみを人形供養に出しました。
今年の始め、実家から持ってきた一つのぬいぐるみ。
以前、私が一人暮らしをしていた頃に愛でていたぬいぐるみです。
コミカルな見た目をしたキャラクターのぬいぐるみではありますが、ずっと枕元で過ごしていただけあって、長きに渡って情を持ち続けていました。
しかし今住んでいるところへ持ち帰ってからというものの、どういうわけか家の空気が変わってしまった気がするのです。
必ずしもそのぬいぐるみのせいではないと思います。
ただ、これまで私が情を注ぎ続けてきたぬいぐるみなだけあって、何かを宿してしまったような……そんな気がしてしまったのです。
視線を感じた時、気配を感じた時、寒気を感じた時――その先には私が持ってきたぬいぐるみがありました。
これではいけない――そう感じた私は、断腸の思いでぬいぐるみを人形供養へと出す決心をしたのです。
――月日は2月末。
人形供養のことを調べてみると近くの神社で受け付けをしているらしく、早速私はぬいぐるみを片手に社務所の窓口へと足を運びました。
ぬいぐるみ片手に社務所のインターホンを鳴らす私。
水色の袴をはいた宮司さんは私を見るやいなや「折角持ってきていただいたのですが……」と、申し訳無さそうな様子。
もしかしてぬいぐるみは受け付けていない?もしくは受け付けられないほどの代物なのか?と疑心に思ったのですが、「3月にお焚き上げを行いますので、受け付けは3月からさせていただいております」と続けたのでした。
3月に持ち込む際、3000円をのし袋に入れて持ってくるよう言われたため私は帰りの足でのし袋を購入しました。
この際にのし袋の表書きには何を書けばいいのかわからず、とりあえず調べた通りとして『初穂料』と下手くそな筆で書きました。
3000円はピン札を用意し、下手くそな文字で書かれたのし袋に揃えて入れて準備は完了――これであとは3月を迎えるだけ。
ぬいぐるみを手放すのが正直惜しく、今回こうして神社へと引き渡すまでの時間が延びたのには少し喜びもありましたが、決別の時が長引いたところで自分自身の溜飲は下がりません。
――そして来る3月1日、こうして私はぬいぐるみとのし袋を手にして今一度近所の神社へと足を運んだのでした。
前回のこともあり、今回は手ぶらで窓口に足を運んだのですが、今度は社務所に隣接した建物内に入るよう促されました。
建物内には祭壇が用意され、既に何体かの人形が飾られていました。
会場の傍らには"玉串料"と印字された茶封筒が山程用意されており、まさかと思い係員の人に確認をすると、この茶封筒に3000円を入れて奉納してほしいとのこと。
別にのし袋を用意する必要なかったではないか――何たる赤っ恥。
私はぶつぶつと不満を漏らしつつ、とりあえず言われるがまま下手くそなのし袋から3000円を茶封筒に移し替え、そして係員の人に渡したのでした。
玉串料を納めた後は、持ち込んだ人形を祭壇へと並べます。
様々な人形が置かれている中、私もぬいぐるみを台座の中に並べました。
日本人形やフランス人形といったいかにもな人形が立ち並ぶ中、私の持ってきたゆっくり霊夢のぬいぐるみが置かれたのは大変シュールな光景でした。
私はその光景に少しばかり笑いを堪えながら、ゆっくり霊夢にこれまでの感謝の気持ちを伝え、玉串を受け取って奉納し、人形供養を終えたのでした。


定次さんが供養したのってゆっくりぬいぐるみだったんですか。

まぁ、魂は器を選ばないと思いますので。

確かに。

で、結局のところ人形供養って神社に"玉串料"を持っていけばいいってことなんですかね?

いや、今回定次さんが持っていった神社ではあくまでそういう形を取っていたってだけであって、実際は色々あるらしいですよ。

お焚き上げは神社だけじゃなくお寺でもやってるみたいですし。

じゃあ場所によっては初穂料も間違いではないと?

そういうことです。

結局は調べてから行けってことですね。

はー、相変わらず何の参考にもならんですね。

何にせよ、愛着ある人形とお別れする時はきちんと供養しましょうって話。

サバサバとした気持ちになりますね。

サバの日だけに。


供養してくれー!