人は何故『特別』を好むのか
おはよう、皆の衆。定次さんです。
思わぬ手違いでエイプリルフールに迎えてしまった前回の1000回記念記事。
今回はそんな記念すべき記事の次に投稿される、どことなく重要そうなポジションの記事となります。
本来であれば毎週月曜日に投稿する『AI絵画シリーズ』を繰り越す予定でしたが、記念すべき投稿の後をシリーズもので抑えて良いのだろうかという葛藤が生まれてしまったために急遽今回のテーマを記事とすることとしました。
正直なところ、そんな記念だの特別だのといった内容を気にかけているのは私だけであって、こんなメタな話よりもシリーズものの続きを読みたいと言う閲覧者の方のほうが圧倒的に多いと思われます。
既存のフレーズからAIに画像を出力させ、ただそれにコメントをするだけの、少々惰性的な部分がある当該シリーズ。
実を言えば、ただ長々と文章を連ねているだけの普段の記事よりもファンが多い傾向にあったりします。
何だかんだで人というものは文章よりも画像を認識するほうを好みます。
だからこそ画像が多用されている記事は好まれますし、実際問題わかりやすい。
本当であればこんなボヤきのような適当な文章を書きなぐる記事よりも、AI絵画の記事を投稿する方が圧倒的に合理的なのです。
しかし人というものは何故か『記念』を意識してしまう。
折角節目を迎えたのだから祝わなければ、何か一つでも言及しなければならない――という強迫観念に囚われてしまいます。
実際問題私もそう。だからこそこうして今回の記事をこんな内容でまとめた気になっているのです。
溜飲を下げなければ気がすまない――人間とは何とも不憫な生き物です。
ルーティンだの何だの色々とありますが、こうして溜飲を下げることで人間はようやく前に進むことができるのです。
そんな強迫観念に囚われない人になれたらいかに事の運びが円滑になるでしょうか。
今の私にはきっとそんな高等なことはできないでしょう。
だからこそ今後も特別な時を意識して記事を書き続けます。
特別な瞬間や自分の決めたタイミングを見定めて一時のイベント感覚を楽しむ……それこそが人間なのです。
それじゃあ、結果として今回の記事は1001回目に足り得る内容になったんですか?
少なくとも気は晴れたかなと。
なぁんだ、結局はただのエゴか。